少ない生活費
北京に国費留学生として招かれたものの、実際の生活は厳しいものでした。
生活費として支給されたのは,たった350元、約7000円。
寮は無料だったが、食費や、生活必需品を買うのは自費。7000円では,食費を賄うのも足りないほど。
そこでヴィタリエはバイトを始めます。
はじめにしたのは、ロシアの貿易のお手伝い。
北京で最初の一年在籍した言語大学には、いろんな国からの留学生がいて、その中の1人のロシア人学生から紹介してもらったバイトです。
ロシアから来た会社の人が北京の混沌としたマーケットで品定めをし、大量に衣類を購入。それをどんどん段ボールに詰めていきます。詰め終わった段ボールは、トラックで空港へ。バイト学生たちは、タクシーで、空港へ追いかけます。
到着したら、すぐにトラックから段ボールを下ろして、ロシアに向かう荷物のベルトコンベアーに載せる。
この作業の繰り返し。
バイト代は、なんと、1日で10000円!
ヴィタリエが政府からもらっていた生活費ひと月7000円に対し1日で10000円!
割りが良い!
また、北京にあった、中国で1番おいしいロシア料理レストランでウェイターのバイトも。
頑張って働けば,一週間で13000円ほどの収入。
ヴィタリエは,鋭い観察力を働かせて、できるだけ良い笑顔とサービス(灰皿や、お皿,グラスを早く取り替えるなど)を提供し、チップをたくさんもらったそうです。お酒を飲んでいい気分の客などは、なんと、1000円〜2000円もチップをくれました。それで,チップだけで一晩13000円ほどになるときもあったという、、、。(一週間分のバイト代が一晩のチップと同じ!?)
そのレストランはいろいろな人が利用していたため、ロシア関係のビジネス、保険、車、チケットなど、ありとあらゆる情報を交換できる場所でした。
ある時、案内&通訳をさがしていたロシア人社長がご来店。ヴィタリはそれを引き受け、上海まで飛行機で行くことに。
飛行機で初の上海旅行!!ウキウキです!
縫製工場との交渉と通訳は、品物によって異なる関税や納品期限の中国語での交渉という難しいもので、頭痛を発症させながらの大変な任務だったようですが、100ドル+旅費+ロシア製の高級水彩絵具という報酬になりました。
そのときにもらった水彩絵具は、いまでも大切に使っているとのこと。
そうやって稼ぎながら絵を学んでいきました。
絵の腕が上がってからは個展を頻繁に開き、北京のホテルや、北京にあった大使館などさまざまな場所へ絵が売れました。個展で出した抽象画の大作は特に人気で、次々と生活費に替わります。
はじめての帰省
ロシア荷物運搬のバイトで稼ぎながら暮らす貧しい画家のたまごは、中央美術学院での1年目を終えます。1994年の夏。
7月〜8月の長い休みで、故郷へ帰省したいが,片道分の旅費しかありません。お金持ちの留学生たちは次々に自分の国へ戻って行きます。
ヴィタリエも、優しい家族の待つ故郷へ帰りたい。でも、また北京に戻って来れるかどうか、、、。
帰りの旅費が工面できなければ北京には戻れない。そうなると、絵の勉強は、志し半ばで終わりとなります。
でも、大胆さだけは人一倍!のヴィタリエ。
シベリア鉄道の片道切符を購入します。一週間のレールの旅。
日持ちする食料を買い込んで、列車に乗りこみました。
待っているのは、緩やかに時が流れるあたたかい故郷。
おばあちゃんは元気だろうか、お母さん,お父さん、妹たち,村の人たち、、、いろいろな顔を列車の窓に映しては、にやけています。
次の話は「夢が壊れた日 1994年」→
ふるさとモルドバ